記憶の中のフィンランド

フィンランド留学時代の記憶を元に。アフィリエイトでガッポガポ作戦。

フィンランドは幸せな国かどうか

お世話になります。

うう。しまああです。

 

 

私が日本語で好きな言葉は、「禁中並公家諸法度」です。

なんていうかこう、響きが良い。わかる人いるかなあ?

ほら、「諸宗寺院法度」より圧倒的に響きが良くない?

 

 

 

 

 

はい。

というわけで、今日の本題。

Suomiフィンランド)は幸せな国かどうか。

 

 

 

 

 

Suomiは幸せな国かどうか?

 

うん。ぶっちゃけ知らん。

 

フィンランドは世界の幸福度ランキングでかなり上位の国であるらしい。

けど、素人の私には、幸福度と呼ばれる指標がなんなのか、さっぱりわからない。

 

だから、「フィンランドは幸せな国です」と言われても、私にはよくわからない。まあ、その指標を基準にするのであれば、幸福の区分に分類されるのでしょうね、と思う程度だ。

 

ただ、まあ日本よりは生きるのがラクかなと思うことがある。いや、しんどい面もあるのだけれど。でも、ストレス源が少ないというか。

 

 

 

私のストレスの原因を考える

 

これは、完全に持論なのだけれど、私がストレスを感じる一番の原因が、何かを「しなけれないけない」という義務感である。「しなければならない」ことができていないから、ストレスが溜まる。

 

じゃあ、この「しなければならない」ことって何なの?って考えると、ルールとか常識とか、或いは、そういうものからくる自分の中の線引き。こいつらが、私のストレスの原因の大半を占めている(実際は主に3番目が原因になっていたりする。そのルールを守らないといけないと思っているのは、自分である)。

 

怒られるのも、ストレスがかかるでしょう?と思うかもしれないけど、怒る原因を考えると、このルールとか常識とかを逸脱している、ということを根拠にして怒られることが多い。しかも、そのルールとか常識は個人の解釈に依存している。ルールとか常識が、怒られている人と怒っている人で異なるかどうかは、怒っている人は気にしていなかったりする。それよりも優先させるに足る感情があるから怒るのだ。

 

(ただ、根拠となるルールとか常識が存在すること自体は、一定の理解が必要だとも思う。)

 

 

 

 

私が思うSuomiと日本の違い

 

例えば、今、Aという地点にいて、Eという地点を目標にするとする。

 

私のフィンランドのイメージ。

A→Eに行く途中で、必ず、Dという地点を通るようにしてくださいということはルールとして決まっている。Eに行くためには、Dが必ず必要であるからである。他については、個人の判断に任せてしまう。A→B→C→D→Eと進むことを推奨しているけど、A→D→Eと行ってもいいし、A→C→B→D→Eと行ってもいい。なんなら、A→D→B→Eとちょっと戻ったりしてみても、Eに辿り着けたね、となる。A→Eの時だけ、Dも通らないとダメだよ、それはEに行けたことにはならないよ、と注意を受ける。

 

一方、私の日本のイメージ。

A→Eと行く途中で、日本では、BとDは必ず通らなければならないということがルールとして決まっている。Cは通らなくても良いけど、みんなが通っている地点なので、Cも通るのが当たり前。で、みんながCを通るので、Cを通ることもルールだと思っている人が一定数いる。A→B→C→D→Eの順番は決まっていないけど、みんなが順番を守っている。それが一番良いルートであるのは間違いないからだ。しかも、A→C→D→Bと進むと、B→Eに進むなんて慣例にないものだから、Eに進んではいけないし、B→C→D→Eという順番で進み直さないといけない、なんて言われる。そんな風に、元々はなかった常識が、いつの間にか付与されている。そして、そのどこまでが本当のルールかわからないルールを破った人は、「その行動は御法度ですよ。社会の規律を乱しますよ」と厳重に注意される。

 

私のイメージはそんな感じ。

 

住んでみた感想として、私は、日本より、フィンランドの方がルールとか常識とかが少ない気がした(あくまで、私個人の感度によるものではあるが)。だから、ストレスが少ないと感じる。別に、日本よりルールが少ないからストレスも少ないという構図は、フィンランドに限った話ではないとは思う。でも、私が住んだ国は日本とフィンランドしかないので、私はフィンランドの方がラクだなと感じる。もちろん、フィンランドでは自分が外国人だから、というのもあって許されていることもあるとは思うけど。

 

ただ、このイメージのせいで、私は日本に得体の知れない気持ち悪さを感じてしまう。この常識って、根拠が曖昧なのだ。私が「小中学校を出ているのであれば、禁中並公家諸法度や諸宗寺院法度を知っているのは常識だよ」って言うくらい根拠が曖昧。私は、どの学校でもこれを習うものなのか知らないからね。それなのに、多くの人が、多くの物事をルールやら常識として認識している。私たちは曖昧なものの上にルールを積み立てて、何を育てているのだろうか?

 

 

 

 

 

一応、私の体験談でもしておくか

 

飛行機に乗った時。私はポンコツなので、よく座る座席の番号を早とちりたり、自称、視覚異常(笑)によって間違える。大体は一個前か、一個後ろの席に座っている。なぜか自信満々の時ばかり席を間違えているのは、不思議なことである。

 

これが、日本の航空会社の場合だと、CAのお姉様から「お客さま」と声がかかり、ちゃんとした席に移動させられる。私を立たせた人の~半分くらいは、少し申し訳なさそうにしている。そして、せっかく一息ついたのに、立たされた私も申し訳なさそうに席を立つ。お互いにごめんね、となるわけだ。

 

ところが、留学時に乗ったFinnairでは、ちょっと変わったことが起こった。何が変わっているって、席を間違えたのが、私ではなく、他のお客さまであったこと。...もそうなのだが、単純に前後の席だったせいか、「このまま入れ替わっても良いよね?」とCAのお姉さんに言われ、私は空いている席に座らされたことだった。つまり、CAさんは席の間違いをそのお客さまに伝えることもなく、私が空いている席に座るだけで、問題を解消して見せたのである。確かに、通路側の席だったのもあって、私としてはなんの問題もなかった。そのお客さまもわざわざ座った席を立たずに済んで、私も席を立たせたりして、申し訳ない気持ちにならずに済んだ。

 

これが、賞賛すべき出来事であるかどうかは、私にはわからないし、Finnairで同じことがあった時に、次も同じように対応するのか、私は知らない。だが、この時の出来事と比較するとすれば、手間の多さは圧倒的に日本の航空会社の方が多いのは間違いない。ルールが多いし、どれだけ面倒なことであっても、ルールから逸脱する行動を(理由はなんであれ)選択しない。

 

(その面倒さの根本たる原因は私だったりするのだが、それはあえて置いておく。あえてだよ?)

 

私の素行を差し置いて、「これが日本と海外(フィンランド)の違いかあ」と私は思った。そんな出来事だった。

 

 

 

 

 

結論

フィンランドの方が日本より、ルールとか常識が少ない。だから、日本より幸福度が高いのかも知れない。だって、ストレス減るもん。

 

 

 

それでは〜。uuu!! simaaaa!!!