記憶の中のフィンランド

フィンランド留学時代の記憶を元に。アフィリエイトでガッポガポ作戦。

外国語を話すとゼロになる。

お世話になります。

うう。しまああです。

 

 

先日上司と面談をしたところ、

「う〜しま〜は能力が極端だね。異様に能力が高いところと、えっ、そんなにか、ってくらい異様に能力が低いところがある。」

と言われた。よく見てるな、と思った。

 

さすが私の能力の偏りを見抜くか。

それにしても褒めるのが、上手な上司である。照れる。

 

「多分う〜しま〜の能力値を、六角形のレーダーチャートにすると、すごいとんがった形になると思う。」

「あ〜。メルセデス・ベンツみたいな形になりそうですね。」

「ハハハハハ」

「はははのは」

「でも、間違ったことはしていないから、もっと自信持ってやってほしいな」

「あ〜。まあ精進します。」

 

的な会話をした。部下のフォローも忘れない、ええ人や。

 

 

その後、なんで私の能力はこんなに極端なのだろうと考えて、「理由は単純だな」と思った。

 

理由は簡単。能力の初期値が元々低いのだ。でも、成長した時の補正値は悪くないらしく、親もびっくりするくらい成長したみたい。昔は、「あんた、仕事できるのかなあ」とよく言われた。

 

前に会社で転勤することを、父親に報告したら、

「お前も社会人なんだなあ」

としみじみとした口調で言われた。

我が家はゆるゆるである。

 

話がそれた。

 

 

 

つまり、上司は、私の初期値のままの能力を見て、驚いたのだ。

私の能力は、伸ばしたいと思った分野だけ伸びた結果、アンバランスな能力値に仕上がった。だから、私からしたら、元は全て低い方で統一されていたのだから、低い方が当たり前だった。上司は自信がないと言うが、私の感覚はずっと初期値のままである。自信がある方がおかしい。

 

でも、少なくとも、一応給料はもらえてるくらいには成長したから、働いているだけで自分は偉いな、と思ってる。

 

 

 

で。

能力のアンバランスさは、外国語を話す時にも表れる。

私のコミュニケーション能力は、日本語に依存しているのだ。

 

コミュニケーションは相手の表情や動作、言葉のニュアンスを汲み取るところから始まる。そして、それらの感度は、言語が異なると、途端に落ちる。文化背景も違うし、簡単な言葉しか使えないから、相手の微妙なニュアンスは伝わらないし、私もニュアンスを伝えられない。

 

例えば、まあ、極端かもしれないが、

「美味しい」

「ほっぺた落っこちちゃう」

「うまい」

「うんめえ」

「ま、うまいんじゃない?」

「これはうまいなあ」

 

が全て"good!!"に集約されてしまうのだ。

 

 

つまり、外国語を話すとき、今まで積み重ねた経験や語彙や手札が使えない、という状態に陥る。

 

ニュアンスや言葉に変化をつけて喋ってきたのに、変化の付け方が突然わからなくなる。タンクは大きくても、蛇口が小さいせいで、水があまり出ない、みたいな状態になってしまうのだ。単純にもどかしいし、ストレスだ。私の場合は、かなりこれが顕著になる。

 

 

しかも、言語に合わせて性格まで変わる。

私も、英語で喋るときは声が高くなり、多少フレンドリーになるし、バスで知らない人が横に座ったら話しかけるくらいのことをしたりする。フィンランド語になったら、声を低くして、静かにする。まあ、フィンランド語は喋れないから、静かになるだけだけど。

 

 

最初、英語を話す時、その変化に頭が追いつかなかった。しかも、それがなぜなのか、うまく認識できていなかった。日本人で社会人の方がオウルに住んでいて、その人にお悩み相談して初めて、私はそのことを認識した。

 

私は英語を話す時に、自分が人生の振り出しに戻ったかのように感じていたが、それは錯覚ではなかったのだ。

「会話ってどうやるんだっけ?」

という具合だ。

 

 

しかも、海外では、友達もいない。頼れる人もいない。誰に聞けばいいのかもわからない。

聞かないとわからないのに、聞いてもわからない。

 

スーパーに行って自分がほしい食材を買うのも一苦労なのだから、役所に行って手続きをする、みたいな当たり前のことが当たり前にできない。

 

 

 

外国語を話すとゼロになる。

ならば、一から能力も関係も築いていくしかないのである。

 

 

私は留学の難しさはそのあたりにあると思ってる。

 

 

それでは〜。uu!! simaa!!